3月23日にあった、3rdシーズン活動レポ&ワークのふりかえり会がありましたので、でかけてきました。4月に入って、なんとなくバイタルがさがっているところで、あまりテンションが上がらないままで参加したのですが、結果としてはやっぱり行っておいてよかったなと。
3.23は、大きくわけて、1.高崎 Civic Vision Run のこれまで、2.3rdシーズンの活動、3.マグネットテーブル、4.全体共有、という構成だったのですが、こうしてふりかえりをしてみて分かったのは、参加者の意識に残ったのはマグネットテーブルだったということ。マグネットテーブルは、グループメイキングの段階での難しさ(磁石と磁石がひきつけあわない!)、それと他のグループとの共有ができない(これは、時間的制約のせい、というのもありますね)などといったネガティブ面があるのは確かですが、参加者の中になんらかの意識を植えつけたり、印象づけたりするうえではとても有効なのだということがわかります。
やはり、どんな話しあい手法(ホールシステム・アプローチ)にしろ、人と人との対話があるからこそ、想いが芽ばえたり、気がついたり、考えが深まったりということが意識のゆらぎが生まれるのでしょうね。
さて、ぼくは3人でトークしていたのですが、その中でとても印象的だったフレーズを紹介させてください。
『高崎にはspace はあっても place がない』
あらかじめすみません、僕は英語にまったく堪能ではないのですが、Macちゃんに入っている辞書を見てみると。spaceは空間です。用例にも、壁とソファのすき間 -the space between the wall and the sofa- なんて感じで、そこに"人"は介在できなかったり、介在していなくても成りたつ空間です。対してplaceは、-I found a place in Paris.- という具合で、そこに"人"がいたり、"人"の手が加わっていたり、"人"の行為を予感させる使われかたが多いようですね。
さて、そうなるとspaceはあるけど、placeがない、とはとっても深刻な状況になっているということですね。社会関係資本(ソーシャルキャピタル)が云々以前に、広場や公園がspaceなのか、placeになっているのか。ホールや体育館がspaceなのかplaceなのかは、ここ高崎にいる人、高崎を外から眺めている人にとってすると高崎が好きか嫌いかにとても大きく影響してきそうです。もっと言うと、高崎のまちはspaceなのか、placeなのか・・・
ここから僕たちが考えていくべきは、必要な空間はspaceをplaceにしていくこと。spaceをplaceにしていくこと。それから、大切なspaceをなくさないというのも同時に大切なテーマになってきますよね。人と人との間にすこーしspaceを、みたいな。
僕も僕なりに考えていきたいとおもいます。社会関係資本とか公共善とかという文脈もありますけど、もっと単純な手触り感で考えていくのがいいのかなぁ、などとぼんやりと考えています。