「明日の高崎」荒木征二

高崎市議会議員・荒木征二の日々を書き連ねています。

2016.06.15 ぐんまCSO「民主主義は最善か vol.2」

 お誘いいただきまして、NPO法人ぐんまCSOの企画「民主主義は最善か vol.2」に参加してきました。vol.2とありますが、なんでもこのテーマでは、3回目の開催とのことです。僕自身はこれが初めての参加でした。たぶん、以前にワークショップ「政治をデザインする」に参加したのが縁で、声をかけていただいたのでしょう。

 

 さて内容は。

 全員が車座になって、登壇者(といっても、ステージに登るわけではない)がその円の中心に座って、スタート。ファシリテーターの方の素晴らしく円滑な進行で、登壇者のこれまで活動・取り組みを紹介した後、いま直面しているコミュニティづくりの難しさ、地縁団体や各種の部分社会とのネットワークのつなぎ方、そしてコミュニティ内部においても、世代間交流のつくりかたなど、登壇者それぞれ視点から語り、そして、車座参加者からの闊達な意見も出て、全体的になごやかで自由な雰囲気のなかで進みました。

 

 さて、時間中はなかなか上手に語ることができなかったのですが、お題である「民主主義は最善か」です。

 最善か? と聞かれれば、最善ではない(択一にはなじまない)、というのが僕の答えです。民主主義は大好きですし、人間一人一人を尊重し大切にすることができる、とても大切な思想だと思います。思想?? ちがいますね、思想ではなくて現象ですね。

 この複雑で多様な背景を持った人々が参加する社会において、民主主義が最善と言い切ってはいけない、色むらが社会には必要だと思うのです。

 あるところで、ワールド・カフェイベントが企画されている。その打合せの場はきっと民主主義なのでしょう。封建的である必要がそもそもないですし、独裁的になる人もいない、いてもいなくなるでしょう。

 ある土地で、田植えの時期に水の入れ方・順番を村内で相談する。その時は民主主義である必要があるでしょうか? たぶん、問題解決が求められる、解決のためにあるコミュニティでは、むしろ民主主義は自ずと影をひそめてくるのではないでしょか(一人一人が個人として尊重されていることが、前提としてある)。

 ということを考えると、この社会が民主主義で一色に染まることは無理があるし、そこには多少の色むらがあってしかるべきだと思うのです。

 

 あと、コミュニティとの関係でいえば、コミュニテイのなかで民主主義が行われているか、行われるかは、単純にそのコミュニティの規模によるのではないかと思います。

 例えば、いま僕が関わっている、高崎 Civic Vision Run 4th についていえば、メンバーが6人ですし、ほぼ完成形に近い民主主義になっていると思います。

 例えば、石原下4町内の指出保存会についてはどうでしょう? 完全な民主主義から、すこし変容が生じています。もちろん、全体的には民主主義といっていいと思いますが、会長以下、結構しっかりとした意思決定システムがあって、30代くらいの若手はなかなか声を発しにくい(僕もそうでした!)状況に、自然となっています。でも、これは悪のシステムでは決してありません。なんといっても経験と場数がものをいう世界であり、内外に顔がきかせることができるかどうか、みたいな部分がどうしても重要で、自然な成り行きでそうなります。そして、意思決定に近ければ近いほど、伴う責任は大きく重くなります。が、保存会メンバー一人一人が十分に尊重されているという意味では、民主主義的ではあります。

 コミュニティの規模がこれ以上に大きくなるにつれて民主主義のあり方も少しづつ変容して、やがては多数決の世界へと移っていくのでしょう。

 

 最後に言葉遊びみたいなものですが、「民主主義は最善か」の問いに、「民主主義は最善かもしれないけど、多数決は最善ではない」という答え方もありそうです。でも、これを考え始めると他のことができなくなりそうなので、今日はここまで!!

  

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